私と他者をつなぐもの

毎日、いろんなことが心に浮かんでは消えていく。

ぜんぶ忘れてはいけない大切なことだと思うのに、書き留めている間にも考えは形を変えて消えて行ってしまう。それに言葉に起こしてみると、その瞬間、その思考はもはや私のものではない別の何ものかになってしまっている気もする。

いつもそんな風に、私は自分の心と頭の中を駆け巡る思考についていけなくて、それに対してすごくもどかしさとフラストレーションを感じている。

誰かと共有したくても、自分自身でさえ輪郭をなぞれない思考を、どうして他者に上手に伝えられるだろう。

かげろうのように存在すら曖昧な心は、いつも誰かに見つけてほしいと願うのに、私すらそれがどこに在るか分からなくて、ひどく孤独だ。


だけど、誰にも理解できないから、誰とも共有できないからこそ、この思考が私を私たらしめているのだとも思う。


この思考が他者と私の「差異」であり、私を形作るもの。

泡沫の思考が私を形作るなんて、なんというか逆説的だけど…きっとそうなのだろう。個を形成するのは、多くの場合、目に見える分かりやすい何かではなく、目に見えない頼りない形のない何かなのだ。

この「差異」を誰かに見つけてほしくて、誰かに承認してもらいたくて、私たちは必死に自分を表現するのだと思う。それが芸術であれ、ファッションであれ、言葉であれ、何でも。


そして私の場合、その手段は言葉だった。


こうして言葉を紡いで、今も必死で自分の思考を掴もうとしている。そして、この文章を読んでくれている誰かが、言の葉の中に隠れた「私」を見つけてくれないだろうかと期待しているのだ。


それと同様に、私も他者の言葉や芸術の中に「彼ら」を見つけようとする。

表現の端に、色彩の端に、彼らの心が見え隠れしているのではないかと、必死に目を凝らす。

そしてその中に彼らの心のかけらを見つけると、なぜか同時に、私の心もやっと見つけてもらえたというような、不思議な充足感に満たされる。彼らの心と私の心は別物なのに。


おそらく私は、他者との「差異」を通じて、やっと自分の心に触れられるのだと思う。


泡沫の思考が、「どんな形の、どんな色のものなのか」はっきりとは分からなくとも、「どんな形ではなく、どんな色ではないのか」が分かると少し安心する。

他者の心は、私にとってそれを分からせてくれる唯一のものだ。


だから今日も私は映画や小説、絵画を注意深く味わい、また、必死に言葉を紡ごうとする。

「誰か」の心に触れたくて、自分の思考をつかまえたくて、誰かに孤独な心を見つけてほしくて。

これが私なりの、他者とのつながり方なのだ。

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